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ラ・ムー (バンド) : ミニ英和和英辞書
ラ・ムー (バンド)[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ラ・ムー (バンド) : ウィキペディア日本語版
ラ・ムー (バンド)[ちょうおん]

ラ・ムーとは、1988年に当時アイドルであった菊池桃子と、フュージョングループ“プリズム”のサポートミュージシャンとしても知られるキーボーディストの松浦義和が中心となり、結成されたバンド。アルファベットでは"RAMU"と表記される。
== 概要 ==
1984年4月発売のデビュー・シングル「青春のいじわる」から始まった菊池桃子の歌手活動は、独自の試みをもって展開されてきた。振り付け重視で、歌い手の技量はなくとも振りが引き立つように作られた曲が主体であった従来のアイドル歌謡に対し、菊池の振り付けは控え目なものであり、作曲を一手に引き受けた林哲司は難度の高い楽曲も躊躇せずに提供した。こうした試みは成功し、菊池は1985年2月に発表したシングル「卒業-GRADUATION-」から、1987年3月の「アイドルを探せ」まで、シングル曲が7作連続で週間オリコンチャート1位を獲得していた〔林哲司 「きらめくだけのアイドルではなく――菊池桃子「卒業」」『歌謡曲』音楽の友社、2004年、175-181ページ。〕。
しかし、1987年7月発売の「Nile in Blue」ではオリコンチャート最高2位止まりに終わり、8作連続のオリコン首位獲得はならなかった。さらに同年10月発売の「ガラスの草原」はオリコン最高4位まで下がり、レコード売上枚数も10万枚を割るなどで〔『SINGLE CHART-BOOK COMPLETE EDITION 1968–2010』オリコン・リサーチ、2012年、216ページ。〕、菊池自身歌手としての人気に陰りが見え始めていた。一方、幼少時からピアノを習い、デビュー以前はピアノを弾きながら歌うことを趣味としていた菊池は、デビュー以降の出来上がった楽曲をただ歌うだけの活動には違和感を感じており、大学進学を機に制作の早い段階から関与したい、という思いを強めていた〔小林優子「バックステージ・インタビュー 菊池桃子 誤解されたな、と思いました。でも20代ってきっといろんなことできる。」『週刊明星』第32巻第12号、1989年3月23日、193-195ページ。〕。こうした菊池の希望を反映するには、バンドを組んでやるのがよいとの判断から、1987年末にバンド結成が決定した〔「ワイド特集 30人の「春一番」 ㉑十九歳で早や脱アイドル宣言 菊池桃子のやむをえぬ事情」『週刊文春』第30巻第9号、1988年3月3日。〕。
1988年2月17日、菊池は赤坂プリンスホテルにおいて単独記者会見を行い、今後は新たに結成するロックグループ「ラ・ムー」のボーカルとして歌手活動を行う、と発表した〔「サヨナラ「菊池桃子」 よろしく「ラ・ムー」ボーカル」『日刊スポーツ』昭和63年(1988年)2月18日付14面。〕。会見の場で菊池は「アイドルでいることに違和感を感じていた」と転身の動機を述べ、2月24日に第一曲を発売するとともに、同日の「夜のヒットスタジオデラックス」においてバンドのメンバーを発表する、と予告した〔「バンド結成! ロックしちゃう 桃子〝アイドル脱皮〟」『スポーツニッポン』昭和63年(1988年)2月18日付19面。〕。後に明らかとなったバンドの構成は2人の黒人バックコーラスを擁する7人編成で、本人達は「ロックバンド」を名乗ったが〔「菊池桃子が新たな挑戦 自分のロックバンドでリードボーカル 」『読売新聞』1988年3月15日付夕刊17面。〕、菊池のアイドル然としたボーカルはソロ時代と変わらず、またサウンド的にも当時の日本ではそれほど定着していなかったR&Bファンク等の黒人音楽色が強かった(久保田利伸などがブラックミュージック色を全面に打ち出してブレイクしたのはちょうどこの頃である)。ラ・ムーの音楽についてリーダーの松浦は、アメリカのブラコンに見られるタイトなリズムに、日本人に受け入れられるナイーヴなメロディーを兼ね備えたものだと説明し、ロックと呼んでも歌謡曲と呼んでもよいが、どちらかと問われるならロックだと述べた〔藤井徹貫「COVER SPECIAL RA MU みんなで同じ喜びを分け合うのが嬉しい」『Oricon』第10巻第31号、1988年8月1日、3-5ページ。〕。
こうして別の意味で話題になったものの、レコードのセールスはソロ時代を超えることはできず、オリコンで4位となった「少年は天使を殺す」以降は話題とならなくなった〔【1988年3月】愛は心の仕事です/ラ・ムー 菊池桃子 突然のロックバンド転身 芸能 365日 あの頃ヒット曲ランキング 3月 〕。1989年9月、菊池はデビュー当初から菊池に関わってきた岩崎加允美の事務所パーフィットプロダクションに移籍、女優に専念することになり、ラ・ムーは事実上解散した〔『AERA』1992年5月5日、91ページ〕。移籍後の菊池はCMでも成功し、一度路線変更に失敗したタレントとしては異例の復活を遂げた〔須藤「〈CMキャラクター研究〉CMで再生した菊池桃子の魅力をさぐる」『宣伝会議』第39巻第12号、宣伝会議、1992年12月、64-70ページ。〕。
筋肉少女帯の楽曲(正確にはボイスコント)の『パンクでポン』の中で、ラ・ムー時代の菊池が「真のロッカー」である、と褒め称える台詞がある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ラ・ムー (バンド)」の詳細全文を読む




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